「木屋」一時閉店まで1カ月-56年ビルを守り続けた管理人引退へ

「木屋」の動力室を56年守り続けた鈴木友次さん(84)も、ビルの取り壊しとともに引退のときを迎える。

「木屋」の動力室を56年守り続けた鈴木友次さん(84)も、ビルの取り壊しとともに引退のときを迎える。

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 日本橋室町の老舗刃物店「木屋」(中央区日本橋室町1)が9月15日、同地域再開発による移転のため一時閉店する。同時に、現店舗が入る「木屋ビルディング」も10月末に取り壊される予定。

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 木屋ビルディングは1954(昭和29)年竣工。その年の11月17日、木屋に入社し、現在に至るまで56年間、ビルを守り続ける動力室管理人・鈴木友次さんもまた、ビルの歴史とともにその職を終え引退することが決まっている。

 1926(大正15)年生まれで現在84歳の鈴木さん。西新宿に11人兄弟の7番目として生まれた。戦時中、ベビーフードなどを製造する和光堂の研究所に勤務しながら、夜間に工学院大学専修学校に通い、1944(昭和19)年電気学科を卒業。翌年7月、海軍に入隊し、静岡県の浜名海兵団でアメリカ軍の本土上陸に備えた特攻訓練を受けるも、8月に終戦を迎える。その後、兄とともに写真機の部品工場を営んでいたが、1954(昭和29)年、京王線の車内で偶然再会した専修学校の先輩から新しくできた木屋ビルでの仕事を紹介され、転職を決意した。28歳の11月だった。

 「当時、日本橋で働くことは誇りだった」と鈴木さん。電気、ボイラー、危険物などの管理資格を生かし、木屋ビル全体の管理を一人で任される仕事にやりがいを感じたという。

 動力室はビルの地下1階、昨年閉店したかつての喫茶木屋の奥にある。56年間動き続ける電力設備と1963(昭和38)年に導入された当時最先端の冷房設備、同年に石炭から灯油へ燃料が代替したボイラー設備があり、その片隅に鈴木さんのデスクとロッカーがある。部屋には窓も空調もなく、夏場は40年ものだという鋳物の扇風機を回し、入り口の扉を半開きにして過ごす。

 「ボイラーの燃料が石炭だったころは、毎日、石炭を機械に入れ、炭ガラを捨てる仕事があった。ほこりが立って大変だった。灯油になってからはスイッチ一つ」と鈴木さん。「昔は停電もよくあって、大慌てで自家発電に切り替えた」とも。

 この56年を振り返り、鈴木さんは「波のない年月だった。しかし、それは高い平行線だった」と表現する。その間、社長が4代変わった。現在の会長は鈴木さんと同い年で、若いころから親しくしてきた。「昔は家族的で、社長や専務の自宅の修理に行ったこともあった。社員がみんな近かった」という。「忙しいときは他人の仕事も何でも手伝った。店で商品の梱包を手伝うこともあったし、社長のバイクを借りて配達にも行った。喫茶の社員が朝遅刻したときは、代わりに自分が調理をしたこともある」と懐かしむ。動力室の壁には、社長や消防署などから贈られた、鈴木さんへのいくつもの賞状、感謝状が飾られている。

 これまで辞めようと思ったことはなかったのか。「1960(昭和40)年ごろ、実は一度辞めようと思って、個人タクシーの登録申請をしたことがある。聴聞会の招集通知が会社に来て社長にばれて、ひどく怒られた。それで聴聞会には行かなかった」という鈴木さん。今でも、そのときに取得した大型2種免許の更新は続けているという。

 80歳になったとき、年齢を理由に退職を申し出たが、会社からは「辞めないでほしい」と言われた。3カ月に1回、管理会社が点検することを条件に消防署の許可をとり、鈴木さんは契約社員として働き続けてきた。「今の新入社員から見たら、このおじいさんはなんだろうと思われているだろう」と鈴木さんは笑う。

 職場には、自宅のある代々木上原から毎日満員電車に揺られて通う。「朝、目が覚めたら、会社に行かなきゃと思う」と、習慣化した日々を語る。「事故がないように」と強い責任感をもって勤めてきた。55歳のとき、病気で1カ月入院したことがあったが、それ以外はほとんど休んでいない。

 引退について、鈴木さんは「もう年だから」と話す。「ずっと1人で守ってきた。ビルが取り壊されるのと同時に引退できるのは、かえって幸せなこと。やっぱり愛着もあるし、この年で元気でいられるのは仕事があったおかげかもしれない」とも。

 木屋ビルの取り壊しまで2カ月半、鈴木さんは1人最後まで、その仕事を全うしようとしている。

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